あの日、抱きつかれて、胸に顔を埋められて、ただ一言「すきだ」と、嗚咽のような声で彼女はおれを呪った。不思議と嫌だとか、悲しいだとかいう感情はなかった。ただ、そのとき漠然と、おれはこの女を殺さなければならないと、他の人間に彼女を殺されてはいけないと、強くそう思ったのだ。殺して、血も肉も骨も全て平らげてしまいたいと、支配欲のような、独占欲のような感情が腹の奥からせり上がってきた。
心臓を何かに掴まれていた。娘の形をした、グロテスクな神が、確かにおれの腕の中で泣いている。ああ、可哀想に、救ってやらなくては。助けてやらなくては。おれの娘だ、おれの女だ、おれだけの神だ。こいつさえいればいい。こいつだけがおれを生かす理由でいてくれる。おれが生きていていい理由になる。死の淵から、地獄の底からおれを引き上げてくれるのは、こいつだけでいい。こいつがおれに飽きて、蜘蛛の糸をいたずらに千切るそのときまで、喜んでこいつの人形になろう。ああ、いや、人形なのはこいつのほうか。おれの血でできた、肉の人形。おれがこいつを作ったのだ。理想の女として作ったのだ。常世の闇のような髪も海の色をした瞳も全て同じ、ただおれよりも美しく、それでいて同じくらい醜い。なにがピグマリオンだ、神話の人間だからと持て囃されやがって、彼のやったことなど大したことではない、おれと同じことをした、それだけじゃないか。
「おとうさん」
その声が、ふとおれを此方に引き戻した。目の前には真っ白のディスプレイと真っ白のノートがある。そういえば新作を書こうとして煮詰まったんだったか。深く息をついて、おれは声の方へ顔を向けた。
「……由美子」
「ご、ごめん、ため息つくくらい、嫌だった?」
「違うよ。嫌なのは目の前が文字通り真っ白ってことだけだ。由美子に声を掛けられるのは大歓迎だぜ」
「ほんとかなぁ」
低い声で笑うと、由美子はちょっとだけ頬を赤くして、おれの隣に座り込んだ。まだ小さな由美子は、やはり一回りくらいおれと差がある。そのまま、猫みたいにおれに擦り寄ると、彼女はぽつりと、疲れてるでしょ、と呟いた。
「……ちゅー、したら、疲れ飛ぶんじゃない」
「やだ」
「なんで!」
「真昼間から盛りたくないだろ」
「なっ……! それわたし以外に言ったらセクハラだよ!」
「由美子以外に言う予定はない。それに、その言い方じゃあおまえ相手なら何回だって言って良いみたいじゃないか」
「さっ……」
「最低? 知ってる」
「おとうさん!」
年端もいかない娘に少しだけ抱いた劣情を、仕様もないネタで誤魔化す。この子は本当に、おれも彼女を求めていると、愛してしまっているとわかってから冗談にならないことを平気で言うようになった。それは、世間にもおれにも良くないことなのはわかりきっているだろうに。
口を付けてくれないとわかると、彼女は見るからに拗ねたような顔をした。そのまま、ふい、とそっぽを向く。それでもおれから離れようとはせず、キーボードの上に乗る猫みたいに動こうとしない。本当に、どこまでも猫みたいなやつだな、と親が抱く愛しさとは確かに違う、何か後ろめたい愛しさが、静かに心臓を締め付けた。
「なあ、由美子」
「……なに?」
「……こっち向いてくれないか」
「やだ」
「キスされないのがそんなにいやか」
「……やだ」
「そうか」
それでいい。心の臓に住み着く悪魔のような何かが、そう言った。
わかっている。おまえは、ちょっと揶揄うと、すぐにそうやっておれから目を逸らす。そうして、謝るまで目を合わせようとしない。露骨に首を曲げる。そうすると、どうなると思う。
そっぽを向いた彼女の首筋に、音もなく顔を埋めた。ひゃ、と彼女の小さな声がして、彼女が震えたのがわかった。鼻先の当たった首筋から、呼吸と鼓動を感じる。そのまま静かに、祈るように、おれは彼女の首筋に口を付けた。
血の人形。おれの作った、おれの愛したたったひとりの女。ただ一人の神。おれを地獄に落とす、それでいて不思議と心地良い、恐ろしいのに何故か逃げられない、むしろ溺れてしまいたくなるような、悪夢。
か細く震える彼女に、少しだけ加虐心が疼いて、口を付けたところに舌を這わせて、少しだけ歯を立てる。このまま本気で噛み千切ったら、彼女は死ぬのだろうか。彼女の血は、おれの血と同じ味がするのだろうか。
「こっちを向かないからだ」
意地悪く笑って、愛しさが生み出した殺意を飲み込む。ああ、愛しい、好きだ、おれだけのものだ、あいしている、どこにもいくな、由美子。
「いじわる」
「でもこういうの好きだろう?」
「……いじわる!」
顔を真っ赤にして、少しだけ涙目になった由美子が、おれを真っ直ぐに見つめる。その目の青が、少しだけ欲に光っていることに気づいて、由美子もおれと同じだけの殺意を抱いているのだとわかる。目を細めて小さく笑う。殺意は愛に似ている。その人間しか見えなくなる。
「……少し休憩する」
「そうなの?」
「由美子と寝たい」
「……昼間からどうとか言ってたくせに」
「添い寝だけで盛る気か?」
「あ!」
「かかったな」
「おとうさんのばか!」
悪態をつく由美子の肩に手を置いて、そっと床に倒す。小さく悲鳴を上げた娘をじっと見つめて、おれも横になる。由美子を抱き枕でも扱うみたいに乱暴に抱きしめて、二十分くらいしたら起こして、と小さく囁く。由美子は、困ったように頷いて、そっとおれを抱き返してきた。
嗚呼、由美子。おれだけが。
おれだけが、由美子のいのちを、にぎっているのだ。
一昨年くらいにかいたものを訂正して再掲。


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